いよいよサッカー日本代表が決定した。エース中村俊輔の不調、国際試合での惨敗。不安要素は尽きず決勝トーナメント進出が危ぶまれるが、意外にも岡田監督本人は、「ベスト4入り」に自信を見せているという。そのウラには、スピリチュアルな師の支えがあった――。
五月十日、六月に開幕するサッカーのワールドカップ(W杯)南アフリカ大会に臨む日本代表メンバー二十三人の名前が発表された。
「チームが勝つために、どういうタイミングでどういう選手がいるかで選んだ。力のある選手を上から二十三人選んだわけではない」
都内のホテルで記者会見に臨んだ岡田武史監督(53)の表情は、硬かった。
ご存知の通り、岡田氏が代表監督としてW杯に挑むのは、今回が二度目だが、最初の九八年フランス大会では、このメンバー選考をめぐり、日本中が騒然となる“事件”があった。
「カズこと三浦知良(現・横浜FC所属)の“落選”です。日本のエースだっただけに、その後の“岡田バッシング”には凄まじいものがあった。だから今回のメンバー発表でも、岡田さんは相当ナーバスになっていた。視察に訪れたJリーグの試合会場でも、徹底してノーコメンント。発表前日には、予定していた視察もキャンセルして自宅に籠もった。代表のスタッフでさえ、二十三人の名前を知らされたのは、発表当日の朝でした」(サッカー担当記者)
八シーズンにわたり海外でプレーし、今年凱旋帰国したMF中村俊輔(横浜FM)、主将候補のDF中澤佑二(同)、欧州リーグで今年ブレイクしたMF本田圭佑などが順当に選ばれ、さらに昨年九月に右脛骨を骨折、代表入りが絶望視されていたGKの川口能活(磐田)が“サプライズ”選出された。
一方で、毎回のことながら、涙を飲んだ面々もいる。「昨年のJリーグ得点王で今季も得点ランクのトップを走る前田遼一(磐田)と、同じく昨季のリーグMVP小笠原満男(鹿島)です。特に小笠原は、『お金を払ってでもW杯に行きたい』と語っていただけに、ショックでしょう」(同前)あるサッカージャーナリストは、この二人については、過去に岡田監督との“確執”があったと語る。
「前田は昨年代表に招集された際、岡田監督が求めたプレーを、『自分にはできない』と言ったそうです。以来、代表には招集されてない。一方の小笠原も、中村俊輔の代役として招集された試合での動きが意に沿わなかったようで、岡田監督が面と向かって『(所属クラブ)鹿島のやり方を持ち込むんじゃない!』と、叱り飛ばしたのを、何人かの選手が聞いてます」
会見で小笠原を選出しなかった理由を問われた岡田氏は「選ばれなかった選手へのコメントは避けたい」と不快感を露わにした。
「二十三人のうち、二十五歳以下の選手がわずか五人で、平均年齢二十七・八歳。日本サッカーの将来を考えると、もっと若い選手を入れておくべきです。またセンターバックの中澤と闘莉王の控えとして、岩政大樹(鹿島)が選出されましたが、代表経験はわずか二試合で、二人の代役をこなせ、というのは荷が重過ぎる。問題は二年半の準備期間がありながら、チームの要となるポジションの控えさえ準備できなかった岡田監督にあると言わざるを得ない」(スポーツ紙デスク)
〇七年にイビチャ・オシム前監督が脳梗塞で倒れたため、急遽、二度目の代表監督に就任した岡田監督だが、ここに至るまでの道のりは、苦難の連続だった。W杯予選を突破した直後、岡田監督は凱旋記者会見で次のように語った。
「(W杯で)ベスト4に入ることに向かって闘志を出していきたい」
だが今年の二月の東アジア選手権で、ライバルの韓国にホームで一対三で敗れると、「岡田辞任」を求める声が澎湃と沸きあがった。W杯前、国内での最後の試合となった四月のセルビア戦では、主力を欠いた相手に、〇−三で惨敗。
「就任以来、岡田監督は『特定のメンバーに頼ったサッカーはしない』と公言してきましたが、セルビア戦後の会見では一転、『メンバーが欠けてしまうと同じ戦い方はできないなと感じた』。肝心の目指すサッカーのコンセプトも、攻撃的なサッカーを掲げて4バックを採用してきたのに、セルビア戦後は守備的な3バックの導入を示唆するなど、ブレてしまった」(前出・サッカー担当記者)
岡田監督の動揺は、選手たちにも伝わっている。チームのエースである中村俊輔でさえ「岡ちゃんは、もうちょっとやってくれると思ったんだけど・・・・」と、周囲に漏らしているという。
惨敗して「スッキリした」
日本サッカー協会の犬飼基昭会長も岡田采配に疑問をもち、解任を考えたこともあったという。早くも“後任”として、元浦和レッズ監督のブッフバルト氏の名前も挙がった。
それでも岡田監督本人は、「ベスト4」入りに自信を見せているようだ。その根拠はどこから来るのか。
「実は、W杯ベスト4という目標は、岡田さんが個人的に敬っている『喝破道場』という施設を営む禅僧の方が、示唆したものだと聞いています」(同前)
香川県高松市五色台。遠く瀬戸内海を望む景勝地に「喝破道場」はある。<自給自足の禅的共同生活を通じて、青少年及び一般社会人の情操の陶冶と身心の錬磨を図り、個性豊かな人間を育成することを目的とする>(HPより)
同施設の理事長を務める禅僧、野田大燈師と岡田氏との交流は、岡田氏が横浜Fマリノスの監督をしていた頃まで遡る。当時野田師がいた横浜の禅寺に、マリノス関係者一同と、正月の必勝祈願に訪れたのだ。
当の野田師に話を聞いた。
「その後、平成十八年に私は香川に戻ったんですが、ある日、岡田さんがひょっこりお見えになって、『実は私、監督辞めたんです』と、挨拶に来られたんです」
座禅と農作業に明け暮れる、喝破道場での生活を体験した岡田氏は、「是非仲間にしてください」と、その場で入門を決めたという。
「代表監督に就任されたときは、『いろいろ熟慮しました。受けることにしました』という電話があったので、『それが一番いいんじゃないですか』とお伝えしました。監督に就任されてからは、こちらには一度も来られてません。専ら手紙かメールですね」
惨敗を喫したセルビア戦の直後にも、岡田氏からのメールが届いたという。
「『これでスッキリした。逆にやる気がわいてきました』という内容で、『落ち着いたら伺います』とも書いてあったので、短く『静かにお待ちしております』と返しました。勝負というのは、勝ちにこだわりすぎると、心が自由でなくなる。徹底的に負けたことで、勝ち負けにこだわらなくなったんだな、と思いました。ここからが岡田監督の本領発揮でしょう」
では、ベスト4の目標も野田師が示唆したのか。
「昔のことは忘れました。そうかもしれないけどね。そういえば、こんな話をしたことがあります。古武術に『遠当ての術』というのがある。相手と相対したときに、多くの人は相手の胸元を突こうとする。しかし達人は、胸元じゃなくて、その後ろにある背骨を突こうとする。すると胸元だけを突こうとするより、威力は大きいんです。」
野田師のほかにも、京セラ創業者の稲盛和夫氏、琉球空手の達人で“気の空手”を標榜する宇城憲治氏など、岡田氏が折にふれて教えを請う人物は枚挙に暇がない。
企業経営者のための私塾「天外塾」を主宰する天外伺朗氏、本名・土井利忠氏もその一人だ。氏はソニーでCDやロボット犬AIBOなどの開発に携わった“伝説の技術者”として知られるが、近年では<個が個を離れて、全体としてひとつの宇宙と融合し、一体感を増していく>ことを意味する「ホロトロピック」という概念を提唱するなど、スピリチュアルリチュアルな分野にも活動の幅を広げている。
その天外氏が語る。
「岡田さんが天外塾に来たのは〇七年。最初の講義で脳科学の話をしたら、ハマっちゃった。脳には、人間になってから発達した新皮質と、それ以前の爬虫類時代までに発達した旧皮質がある。新皮質は、例えば複雑な法律を読み解くのとかは得意なんだけど、運動のように本来旧皮質がやるべきものに、新皮質がしゃしゃり出てくると混乱する。ゴルフのイップス病はその典型です。気功も瞑想も座禅も、全て目的は新皮質の働きを弱めて、旧皮質を活性化することにあります」
高校時代はパーマに腰パン
「ボールが止まって見える」ような状態をスポーツの世界では「ゾーン」と呼ぶ。同じ状態を天外氏は「フロー」と称し、旧皮質が活性化し、フロー状態に入った「燃える集団」が企業経営においては、奇跡を成し遂げると説く。岡田氏は、天外氏との対談で、脳科学などに興味を持った理由として、選手が自分の言った通りにしか動かないことに「自らの限界を感じた」から、と語っている。
<座禅、気功、記憶セミナー、マインドマップ、古武術・・・とにかく怪しいものも含めて(笑)、いろんなことにチャレンジしました。でも結局、自分に対する答えは出ませんでしたね。その時に出会ったのが「天外塾」です。 社員が自然と動きだす」経営というものに非常に興味を持って参加したんです>(「WiLL」二〇〇九年四月号)
岡田氏は今年一月に行われた天外塾の断食会にも参加、そこから日本代表の指宿合宿に直行したという。
「三日間の断食で普通、宿便が出るんだけど、岡田監督は最後まで出なかった。腸が固いんですね。どういうことかと言うと、ものすごく強い意志で自分をコントロールしてるということ。最後には出ましたけど、あんなに出なかった人は初めてですね」(天外氏)
天外氏によると岡田氏は「選手たちがなかなかフローに入らない」と悩んでいた、という。
「今年に入ってチームの具合が悪くなったでしょ。一つの可能性としては、監督の評価を気にするとフローに入れないわけですよ。『オレを選ばないのはバカだ』くらいの気概でやるべき。本田圭佑なんかはそうでしょ。逆に国内組は、従順で言われたことは一生懸命やるけど、そういう気概が見える人が少ない」(同前)
その天外氏は岡田氏に、スポーツ界のメンタルトレーニングの第一人者、福島大学の白石豊教授を引き合わせている。白石氏はもともと体操選手で、北海道日本ハム・ファイターズのメンタルトレーニングを担当したことなどで知られるが、岡田氏は毎月のように福島に白石氏を訪ねているという。
「最近では、毎月一回は会ってます。『最初は自分だけがベスト4と言ってたけど、一人、二人と、本気でやったろうかな、という選手が出てきた』と仰ってます。世界ランクで四十何番のチームがベスト4に入る=奇跡を起こそうとしたら、チーム全体がゾーンとかフローに入るしかない。岡田さんは、一%でも可能性を上げようとしているんだと思います。」(白石氏)
それにしても、こうした岡田氏のスピリチュアル好きは、どこから生まれたのか―。
岡田氏は一九五六年、大阪府の帝塚山で生まれた。
岡田家は代々医者の一家で、父は産婦人科医。裕福な家庭の子女が通う帝塚山学院小学校に通っていた岡田少年の印象を、かつての同級生はこう振り返る。
「明るくて悪戯好き、頭もよく、クラスのリーダー的存在でした。当時は野球少年でしたが、運動神経抜群で、女子の間ではかなりの人気でした(笑)。もっとも本人に言わせると、『怒られた記憶しかない。先生に“帝塚山学院にふさわしくない”とまで言われた』そうです。卒業文集で、医者を継ぐつもりはないと宣言し、『社会に認められ、尊敬されるのなら、どんな職業でも悔いはない』と、小学生とは思えない決意を綴っていたのが印象的でした」
岡田少年は帝塚山学院の中学には進まず、公立の住吉中学校に入学。野球部のスパルタ式練習を嫌い、サッカー部に入る。指導者がいなかったため、自ら指導書を大量に買い込み読破、部室には「サッカー文庫」が出来上がったという。
高校には行かず、ドイツにサッカー留学することを目論んだというが、父親に説得され、地元の進学校、天王寺高校に入学する。
「当時のサッカー部は、“走れ、頑張れ、水飲むな”の根性論でやってた部分もあったんですが、一年下に岡田が入ってきて『根性も大事だけど、もっと合理的にやらないと優勝できませんよ』と言うんです。
プレーはわがままで、ゴール前では絶対にパスせず、ひたすらドリブル。三人抜いて、四人目に潰される感じかな。生意気だったけど、一目は置いてました。一年の秋ごろからパーマを当ててきて、二年の夏ごろにはラモスみたいになってた。さらにユニフォームも腰までずらして、“腰パン”状態。異様な格好でしたよ(笑)」(サッカー部の先輩、長峰淳一氏)
天王寺高校には制服がなく、アロハシャツで登校してきたこともあったという。
「岡田は裾を絞ったボンタンをはいて、メガネもレンズを半分切ったようなものをかけて、格好はつっぱりタイプだったね。ガールフレンドはいなかったんじゃないかな」(同級生)
高校三年時には、ユース代表に選ばれたため、受験勉強ができなかった。
「サッカー推薦で大学に入ることもできたんですが、岡田は『サッカー枠はイヤだ』と言って、一浪して早稲田の政経に受かった」(同前)
二歳年上の妻と「学生結婚」
早大サッカー部でも、その存在は異彩を放っていた。岡田氏の親友、吉浦茂和氏(現・築陽学園高校サッカー部監督)が振り返る。 「僕は日本大学サッカー部だったんですが、メガネをかけてヘディングする『ワセダの南こうせつ』といえば、大学サッカー界で知らない人はいなかった(笑)」
二歳年上の妻、八重子さんとは学生結婚。ある日突然「会わせたい人がいる」と大阪の実家に八重子さんを連れて帰り、そのまま結婚を決めてしまったという。
就職にあたっては、環境問題を告発するため、マスコミ志望だったというが、TBSにあえなく不合格。結局、サッカー部が日本サッカーリーグ(Jリーグの前身)に所属していた古河電工に入社。日中は会社員としての仕事をこなしながら、選手として日本代表にも選ばれている。
現役引退後は、本場のコーチングを勉強するため、家族を連れてドイツに移り住み、九三年のJリーグの開幕直前に帰国、九四年から加茂周監督(当時)のもとで日本代表コーチを務めたことが、その後の岡田氏の波乱に満ちたサッカー人生の“幕開け”となった。
友人、知人たちが語る岡田氏の素顔は、頑固すぎるほど頑固だが、根っから明るくて冗談好き、というものだった。それだけに、誰もがテレビのインタビューに答える岡田氏の仏頂面を、「あんな表情をみなことがない。代表監督のプレッシャーがそれだけ大きいんでしょう」と首を傾げる。
あるサッカー協会関係者は、最近の岡田氏のこんな“習慣”を語った。
「合宿のときは、選手を集めたミーティングが終った後、ほぼ毎晩、監督以下スタッフ数名だけの『裏ミーティング』があります。岡田さんはコーチが買ってきたワインを飲みながら、選手起用や戦術などについて『オレはこう思うんだ。なあ、そうだろう?』とスタッフに同意を求めるそうです。スタッフが『そうですね』と応じると、岡田さんは『そうだよな』と頷いて、ようやく今後の方針を決めると聞きました」 五本の指に余る「師匠」たちの存在もまた、孤独な指揮官には欠くべからざる存在なのか。前出の吉浦氏は、昨年、久しぶりに博多で岡田氏と酒を酌み交わしたときの様子をこう語る。
「私が『ベスト4なんて無理やろ』と言うと、岡田は『いや、絶対いける』と確信している感じでした。一方で、自分を落ち着かせるために会っている先生がいる、ということも言ってました。『とにかくその人言葉を聞くと安心して決断できるんだ』と」 前出の野田師が語る。
「結局監督の仕事というのは、いかにして選手たちを自分の手足として動かせるか、ということ。監督と選手が一心同体になるためには、監督だけじゃなく選手も座禅を組まなければいけんわな。今度来られたら、そう言おうと思っています」
泣いても笑っても座禅を組んでも、W杯まで残された時間は、あと一ヵ月――。